ポドールイの人形師

1-5、雪の丘

前へ | 次へ | 目次へ
 左手で小人の人形を抱きかかえ、右手を仮面の道化の手に引かれ、シシルは丘を下る一本道を歩いていた。雪の一本道。白銀の絨毯を裂いたような細い筋は、ひどく頼りない代物だ。雪玉を転げ落とした跡みたい、とシシルは思った。
「隠し通路って他にもたくさんあるんですか?」
「ええ、各部屋に一つはありますよ。いついかなる襲撃にも対応できるように」
 さすが人形館というだけのことはある。人形置き場と化していたジューヌの部屋にも、ちゃんとからくりが備えられていた。ジューヌ伯爵が大きな熊のぬいぐるみの後ろ、煉瓦の壁を一押しすると、切り取ったかのように人一人分の壁がずれ、いとも簡単に回転した。小人の操り人形を預けられ、手を引かれるままに壁を抜けると、通路は白い外へとつながっていた。
「それにしてもドロティアさん、ディディエに騙されるとはおまぬけですよね。カラスが喋ったり、人形を動かしたりなんてできるはずがないでしょうに」
 後ろからでは表情はうかがえないが、伯爵はくつくつとうれしそうに笑ってみせた。後ろから見た道化の頭は、きらきらとした銀の髪が流れている。
「襲撃って……、ドロティアさま以外にも襲ってくる人がいるんですか?」
「いいえ。こんなところまでやってくるのはドロティアさんくらいです。でもドロティアさんは怖いんですよぉ。軍隊一つ、一瞬で消し炭に変えてしまったくらいなんですから。手に負えないっていうんで、先代はドロティアさんを選帝侯に据えて、懐柔策にでたんですよ」
 もしその話が本当ならば、隠し通路ごときで対応できるとも思えなかった。ドロティアがその気になれば、屋敷ごと吹き飛ばされるのがおちではないか。ジューヌ伯爵は、本当は何に怯えているのだろう。
 シシルはそのまま黙りこくり、道化は道化でシシルの手を引くばかり、それ以降なにを喋ることもなかった。
 ただ、雪を踏みしめる音のみを響かせて。道化と少女は人形館の丘を下った。

「見えてきました」
 ジューヌ伯爵の声にシシルは顔を上げる。
足が冷たい。シシルの屋内用の布靴に、じわじわと雪が染み込んでくる。
 どこへ連れていかれるのかもわからぬまま、ただ手を引かれるままに雪の一本道を下ってきたシシルだったが、ジューヌ伯には一応目的地があったらしい。
「ほら、私の村です。ほとぼりが冷めるまで、かくまってもらいましょう」
 細い道がさらに細まりながら伸びているように見える丘のふもとに、重たい雪をいっぱいに積んだ、三角屋根が並んでいる。組木造りに藁葺き屋根をかぶせられた、かわいらしい家々の集まる小さな集落は、丘から一望に見渡せた。
「ジューヌさまの、領村ですか?」
「ええ、ポドールイの村です。ここはやせた土地ですから、シシルのお父上の治めていたシャイヨーと比べれば小さな集落ですが、みんな気のいい人たちばかりですよ」
 これまでジューヌ伯爵の、伯爵らしからぬ姿ばかり見せられてきた。今目の前にいるジューヌ伯爵ですら、とぼけた仮面の道化の装いだ。
 ようやく伯爵の領主らしい姿を予感したシシルは、自然気が昂ぶってくる。
「伯爵さま、まさかその姿のままで?」
「ええ」
 道化の姿のまま。人形館の中だけならともかく、領民にこのような恥ずかしい姿を晒すのでは、威厳もなにもあったものではない。伯爵には、貴族としての自尊心はないのだろうか。
「ここで着替えるわけにもいかないでしょう」
「でも、じゃあせめて、その仮面くらい外したらどうですか?」
 仮面は左右を赤と白に塗り分けられ、とぼけた表情の小さなのぞき穴を穿った、愉快なものだ。
「いえ、私は自分の顔があまり好きではないのです」
 そう言われては無理やり取らせるわけにもいかず、シシルは自分の主になんとか威厳をもたせようと思い悩む。
「そうだ、馬に乗ってはどうでしょう。お父さまが巡察に出るときは、いつも馬に乗っていたわ」
 清廉の士。シャイヨーの名領主と言われたシシルの父は、領内を見回るときはいつも自慢の白馬に乗っていた。神々しいほどに威厳溢れるその姿に、言葉もなしに農民たちはひれ伏した。馬から下りて、自ら手を差し伸べて農民たちに頭を上げさせる父の姿を、シシルはいつも誇らしく見ていたものだ。
 希代の名士といわれた父と、たかが地方伯爵のジューヌを比べるのも酷とは思う。だがせめて、形だけでも整えてほしかった。
「それはよい考えですね。たしか村長さんがロバを飼っていたように思います。貸していただきましょう」
「……ロバ、ですか」
 父が白馬ではなくロバに乗っていたら。それもそのロバが領民からの借り物で、父が道化の姿をしていたら。名士といわれた父といえども、ひれ伏す者がいただろうか。
 ましてやロバに乗るのは偉大な父ではない。この頼りない伯爵では……。やおら期待をしてしまったばかりに、村を練り歩く自分たちを想像すると、シシルはすっかり気落ちしてしまう。

「ロバでごぜぇますか。ええ、おりますよ。今出してあげましょう」
 突然訪ねてきたシシルらを、気のいい笑顔で迎えてくれたのは、ポドールイ村の村長、ジェロム・モルロだ。ジューヌの要求にも嫌な顔ひとつせず、厩から一頭の小さなロバをひいてきてくれた。
「ディアンヌでごぜぇます。もう年でごぜぇますから体力もねぇうえに、盲いておりまして、引退させとりました。ですが伯爵様のお役に立てるとは、ディアンヌも冥利に尽きますでしょう」
 しょぼしょぼと見えない目をしばたかせる灰色の小さな雌ロバは、足元もおぼつかなく、役に立つようには思えなかった。さすがのジューヌ伯爵も、思うところがあるのだろう、不安げに口を開く。
「私が乗っても、大丈夫でしょうか」
 まずこのおぼつかない足取りでは、伯爵の体重を支えるのは無理だろう。しかもこの短足のロバでは、足の長い伯爵が跨ると、地面に足がついてしまいそうな気がしてしまう。ジューヌ伯爵の不安げな問い掛けに、村長のモルロは虚を突かれたような顔をした。
「伯爵様が! そりゃ、無理でごぜぇます。ディアンヌはよぼよぼのばばあでごぜぇますから。でもそちらのかわいらしいお人形さんなら、ディアンヌに乗せても大丈夫でごぜぇますよ」
 そう言ってモルロは、人の良いにこにこした目でシシルを示してみせた。一瞬シシルは、自分の抱く小人の操り人形のことかとも思ったが、どうやらシシル自身のことを言っているらしい。伯爵に威厳を持たせるために馬がほしいのに、シシルが乗ってどうするというのだ。それにシシルは、昔からお人形扱いされるのは大嫌いだった。相手に悪気はないのだろうが、遠まわしに何もできない娘といわれてる気がするのだ。
 なんとか言ってやってほしいとジューヌ伯爵に目をやったところ、伯爵は期待を見事に裏切る反応を返してくれた。なるほど、と手を打つと、いきなりシシルを抱き上げ、雌ロバに横座りに乗せてくれる。
「シシル、靴が……」
 そこで濡れた布靴に気がついた伯爵は、かしずきシシルの靴を脱がしてくれた。シシルの小さな裸足が宙に揺れる。
「すみませんね、気がつかなくて。冷たかったでしょう」
 雪の地面に片膝をつき、シシルの足を心配する道化の姿は、決して貴族たるものではない。ジューヌ伯爵は忘れている、なんのためにロバを借りに来たのか。
「ジューヌさまは本当に気がつきませんね」
「え……。ええ、すみません。よく言われるんです。ドロティアさんにも、私は無神経だと」
 申し訳なさそうに馬上の少女にそう語る道化の姿は、シシルの貴族たる理想像とは対極の姿だ。思わずシシルはため息を漏らす。ジューヌ伯爵は、とことんまでに情けない人だった。

「領主様」
 険悪な空気を読みきれないのか、村長のモルロが唐突に話し掛けてくる。
「ご自分の人形とお遊びになられるのもよろしいのでごぜぇますが、フュレーさん家にお祝いに行ってくだせぇませんか。生まれたんでごぜぇますよ。伯爵様が行ってくだされば、クリスチャンも喜びましょう」
「え、予定より早いじゃないですか。そうですか、フュレーさん家に。それはおめでたいですね。ではもうクリスチャンもお兄ちゃんというわけだ」
 村長と伯爵が心底うれしそうに話をしている。
 村人に赤ん坊が生まれた。おめでたいことだと思う。小さな村だからなおさらだ。シシルの父も、いちいち村民の冠婚葬祭にはお祝いに行ったり、お悔やみに行ったり、こまごまとした巡察を行っていた。そういったことも称えられるに足る領主になるには、必要なことだろう。
 だがそのまえに、村長の言葉に聞き捨てならないものがあった気がした。
「モルロさん」
 シシルは、意識して不快げに言葉を紡いでみせた。
「領主様、わしに話し掛けてくださるときは、人形を使わねぇで、ご自分で喋ってくだせぇ。なんとも変な気分でごぜぇますから」
 シシルが話しているというのに、困った愛想笑いを浮かべるモルロの顔は、ジューヌ伯爵に向いたままだ。やはり、思った通り。モルロは比喩としてシシルを人形扱いしたのではなく、本気で人形だと思っている。
「モルロさん、あたしは人形ではありません。人間です」
 ドロティアにも間違えられた。怒り心頭ではあったが、相手が伯爵の領民ということもあって、シシルは努めて感情を抑えて口にする。だがそのシシルの言葉に、ええ、ええ、と適当な相槌を打つモルロの視線は、あいかわらずジューヌ伯爵を向いたままで、どうやら信じてもらえる気配はなかった。
前へ | 次へ | 目次へ
Copyright (c) 2006 Makoku All rights reserved.