ポドールイの人形師

3−2、正体

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 初めて人形館に来て、この部屋に通されて、もうすぐ四年の月日が流れることになる。なにもかもが薄暗くくすんだ人形館の中。シシルの部屋だけを彩る、淡い薄紅を見るにつけ、ジューヌの暖かな感情を感じるのだ。
 シシルの後ろを飛んできたディディエが、扉の隙間をスイと抜け、部屋の中を一つ小さく旋回する。やがてナシャが整えてくれた、柔らかな薄紅の掛け布団に、飛び込み勝手に丸くなった。先を越され気分を害したシシルはというと、続いて勢いをつけて寝台の上に倒れこむ。珍しいシシルの攻撃的な態度に、ディディエは少し驚いた様子だった。だがシシルが自分の脇で倒れ伏せたまま動かないのを見て取ると、クワァ、と短く鳴いて、再び尻尾の生えた、黒い羽玉に戻ってしまう。
恐る恐る手を伸ばし、シシルはディディエの羽玉に触れてみた。少し羽毛が膨らんだ気もしたが、ほとんど反応がない。調子に乗ってくすぐってみる。もぞもぞと丸まったまま、ディディエは尾羽を揺らして、枕のほうへと逃げていった。追いかけようとしたところ、黒い羽玉から首が生え、ぐるりと回ってシシルを向いた。ディディエの金のやぶ睨みの眼差と目が合ってしまい、シシルは思わず伸ばした指先を引っ込める。寝台の上に伏せたまま、ディディエを触るのは諦めて、扉に向けてと頭の向きを変えてみる。
 目を瞑ると、床から寝台を伝わって、近づく足音を聞く気がした。シシルのよく知る、少し落ち着かない足音だ。ディディエのお陰で、大分昂ぶりを静めることが出来たと思う。ありがとうの気持ちを込めていきなり乱暴に抱き着くと、黒い尾羽で強か顔を打たれてしまった。

「はじめまして、ですよね。ラウランの当主さま」
 うつぶせに寝転がって顔だけを向けて、シシルは横柄な態度で挨拶した。一等無礼な行為なのは自覚しているが、相手にもそれだけの非があるものと思っている。
「自己紹介してくださる? あなたのことは知らないわ」
 シシルに見据えられ、少年将校は立ち尽くしたままに、戸惑った様子で視線を泳がす。やがて胸に手を当てるだけの、もっとも簡易な礼をもって、シシルに応えた。
「ラザール・ド・ラウランの庶子、リュックと申します」
 シシルは目を眇め、少し紅潮した少年の顔を見上げてみる。リュックが目を逸らすのをみてとると、シシルもやがて布団に顔を埋めてしまった。
「歳、生まれ、母親、肩の雪十字の紋の意味。ついでにあなたの名前の由来も。もろもろ説明なさい」
 顔を埋めた真っ暗な空間で。布団に包まれ、シシルの声が聞き取りづらくこだまする。
「歳は……、今年で十九。生まれはパリスで……母は、平民の出です。ですので紋に斜線が入ってまして、名前は司教様より……」
 布団を介して届くリュックの声は、かわいそうになるほどしどろもどろだ。顔は見えないが、相当にあがっているのであろう。シシルはふと、昔の苦い思い出を思い出した。聖典の一節を、シシルは教会で発表しなければならなかったのだ。ちゃんと覚えていったのに、本番司教の冷たい笑顔を前にして、しどろもどろに言えなくなった。
「十九年前とすると、ラザール叔父さまが司教さまとパリスに留学してた頃ですか? 説明はつきますね、ラザールさま、いつもサン・フロランで遊んでたって、お祖父さまがよく愚痴ってましたもの」
 サン・フロランは娼婦街だ。相当に性格が合わないのか、ささいな理由で祖父のダルジャントー卿はいつもラザールと喧嘩していた。そんな様子を懐かしく思い馳せていると。
 あ、はい……。少年リュックの小さな返答が耳に届いた。
 シシルは思わず、布団に埋めた顔をしかめる。
 その生まれを侮った。その母を卑しめ、父を辱めた。矜持ある者なら当然恥じ入り、むしろ憤慨すべきシシルの暴言に、リュックはまるで安心したかのような、穏やかな様子で答を返した。
「そんな人間が、ラウランの当主をやってるわけね」
 寝転んだまま顔も向けず、あまりにまずいリュックの返答に、シシルの言葉にも思わず余計に刺が生える。
「えと、すみません。でも私、代理みたいなもので、シシル様が結婚されて、お婿さんをもらったら、すぐにお譲りするつもりなんですよ」
 慌ててしまって、リュックはすっかり素が出てしまっている感がある。
「あなたは」
 シシルは溜め息をつき、言葉を区切る。やがてもぞもぞと起き上がり、リュックを見上げた。寝台の上に、靴を履いたままの崩れた姿勢で座り込む。乱れた髪がシシルの視界を遮るが、あまりにお粗末な芝居を前に、それを直す気にもなれなかった。
「あたしのことを知っているのね」
 シシルが何を言っているのか分からないというように、リュックは男にしては長い睫毛の瞼をしばたたかせた。しばらく考えて、何かに気付いたようだ。人形館の居候は、見知らぬ少年にまだ素性を明かしていない。
しまった、と。声には出ないまでも、リュックはあからさまに感情を顔に出している。やがて慌てた様子で顔を俯け、表情を隠した。
「お父さまが捕まった時も、人形館に叔父さまたちが来た時も、あたしは結局一人逃げていただけ。この四年近く、一度もラウランを名乗ることができなかった。もう家名を戴く権利もないと思うの」
 シシル・ド・ジューヌ。お調子者の村の司祭が、冗談とも本気ともつかない勘違いでくれた名が、呼ばれているうちに、自身ですら馴染んできてしまう始末だった。
「そんなことはありません! シシル様はまだ小さく、本来私たちが守るべきところを、お一人で本当に強く戦っておられました。あなたはラウランにとって大切な方で、皆、あなたを想っています」
 シシルは髪を耳に掛け、間髪入れず大きな声で答えた少年の顔を見上げてみる。頬は紅潮し、半ば怒っているようだった。
 先ほどまでの頼りなげなで情けない人間とは、まるで別人のようだ。思わぬ嬉しい言葉に、シシルはつい相好を崩してしまう。必死に口元を引き締めなおし、シシルは手招きしてリュックを傍へ呼び寄せた。
「あたしの旦那さんになる人が、本当の当主になるんだっけ?」
 寝台に座ったままのシシルは、高い位置のリュックの顔を見上げて問い掛けた。 決まり悪げな、はい、という答が、頭の上から降ってくる。
「じゃあね」
 言葉を切って、シシルはリュックを引っ張り屈ませた。至近で覗き込む、黒目がちな、大きな鳶色の瞳の童顔は、ずっと見慣れたものだ。
「あたし、リュックさまと結婚するわ」
 少し紅ばんだ頬に手を当てて、シシルはにっこり微笑んだ。一つ呆気に足られたように睫毛をしばたたかせ、続けて真っ赤に染め上げられてゆく少年の顔に。シシルは堪えきれず、吹きだした。

 シシル様、人が悪いです。ずっとわかってらしたんですね。

 カロルがあたしを騙そうなんて、百年早いわ。話したいこと、聞きたいことは山ほどあるの。朝まで帰してあげないから。

 朝まで、シシルはリュックを質問攻めにして、話させた。家族のこと、故郷のこと。小さなお家騒動や、リュックに無理やり雪十字の金縁を継がせた、叔父ラザールの悪企み。禁教や徴兵といった、知らない言葉もリュックの口から零れ出た。皇帝とヴィルトールの施いた、非道の法。ジューヌは一言も、そのようなものを教えてはくれなかった。
 最後にリュックは、シシルを連れ帰ることを申し出た。
「あたしになにができる?」
 一晩握りつづけたリュックの、男の子を装うには小さすぎる手を離し、シシルは少し距離をとってそう訊ねた。汗ばんだ手を、今度は一人で握り締める。答えはわかっていた。シシルが四年の年月をかけても見つけられなかった問いの答を、大好きな侍女といえども、知っているはずがないのだ。
「あたしは、人形館に置いてもらうわ。また逃げるみたいだけど。でもシャイヨーに行っても、邪魔になるだけだと思うの」
 努めて明るく、うろたえるリュックにシシルはにっこり笑みを造った。
「リュックさまは、どうして戦うの? そんな格好、あなたには全然似合わないのに」
 シシルはリュックに顔を寄せ、よく表情を映すその大きな瞳を覗き込む。隠すように、リュックは慌てて顔を背けた。
「民を虐げ、神を侵す、帝国の横暴をとどめるためです」
 大言を、リュックは芝居がかって口にした。一体誰に吹き込まれた台詞だろう。あいかわらず、嘘の下手な子だ。
「余計に帰れなくなったかな。志が違うわ」
 俯き、少し間を置いて。下を向いたまま睫毛に翳るリュックの瞳に、じんわり涙が浮かんでいた。
「父様の、復讐をしなければならないの……」
 言葉遣いが素に戻っている。ボソッとリュックは、隠し切れないカロルの言葉を零してくれた。自分より高い位置にあるリュックの頭を、手を伸ばし、シシルは優しく撫でてやる。
「じゃ、一緒だ。いつかあたしが、カロルのことを助けに行くわ」
 泣いてしまいそうな少女の頭を引っぱり寄せる。薄い自分の胸に、ギュッとカロルを抱きしめた。

「ジューヌさま、入ります」
 ジューヌの私室に、シシルは許しも得ずに踏み入った。一応ノックはしたのだが、中から反応がなかったのだ。
 あいかわらずの、換気をしてない淀んだ空気が、狭い屋内を支配している。部屋の中央の、小机に備わった椅子には、ナシャが一人で座っていた。動く様子のないナシャの頭に、金目のカラスがとまっている。いつの間にかシシルの部屋よりいなくなっていたディディエは、今はナシャの綺麗な髪で巣をこさえ、器用に丸くなって休んでいる。
「ジューヌさま……」
 呼びかけながら部屋中を見回し、やがて人形たちの間に主の姿を発見する。修理された痕のある牛頭の化け物と、ひびの入った少年の陶像に挟まれて、膝を抱えた仮面の道化は、完全に人形群に溶け込んでいた。だが見つかっても逃げようとしないあたり、隠れていたわけでもないようだった。
「シシル、結婚するというのは本当ですか……?」
 蚊の鳴くような情けない声音が、赤白の仮面の裏から漏れてきた。
 盗み聞きでもしていたのだろうか。そういえば、ディディエがいたのだ。憤慨すべきところだったが、あまりにも憔悴しきったようなジューヌの声につられ、そんな気力は萎えてしまう。
「ジューヌさま、お願いがあるのですが」
「シシル、確かにあのリュックという少年は、悪い人間ではないように思います。だけど、少し簡単に決めすぎな気もします。もしシシルが、ラウランの家のために彼と結婚しようと思うのなら、私はあまり、おすすめしません」
 あえてジューヌの勘違いを聞き流したというのに。シシルの言葉にジューヌは割り入り、珍しくなにかを諭してくれた。
 政略結婚は、シシルも嫌いだ。そういうものは、タルモンやヴィルトールなど、得てして家格の低い貴族が体面作りに用いる手段だと思っている。
「これからも、人形館に置いてもらってもよいですか?」
 応えずシシルは、話を続けた。シシルの願いに、ジューヌは何も答えてくれない。表情が見えないだけに、ジューヌの思うところが読み取れない。だがやがて、出て行くつもりだったのではないのですか、と仮面の道化が、呆けたように問い返した。
「盗み聞きをしていたことに関しては、後でゆっくりお話させてくださいね」
 いまいち話にならない。誤解を解く必要があるようだ。ついでにきついお灸を据えておかねばならないだろう。悪意を込めて、シシルはにっこり道化に微笑んだ。すると背後で固まっていた、カラスを乗せた陶人形が、突然饒舌に言い訳を始めてくれる。
 主のあいかわらずの情けないやり口に、シシルは溜め息をつきつつ、ナシャに振り返ることなく額を抑えた。
 雪の丘の人形館には、ずっと変わらない香ばしい黴の匂う、優しい空気が詰まっている。たくさんの人形たちに囲まれて、ナシャにジューヌに、化けガラスや怖い魔女も来るだろう。
 なんと、安心する場所だろう。だがこの穏やかな地で、戦う術を、見つけなければいけない。
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