ポドールイの人形師

3−3、晴日

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 抜けるように空が真っ青な、晴れた日だった。
黒く炭化した燃えきらなかった教会の柱が、太陽に照らされて、雪の地面に深い影を落としていた。瓦礫の一角が掃除され、掘立て小屋が建てられている。戦前の唯一の名残である雪の積もった十字架は、小さな藁葺き小屋にはやや大きい。雪の重さを支えきれず、少し傾いで屋根の先に掛かっていた。
 剣を携えた少年は倒れた柱に腰掛け、空を見ていた。黒衣の司祭は、小屋を出て来客を出迎える準備をしている。
 人形館の姫君が、ロバに乗って訪れる日だった。

「おう、シシル。よく来たな」
 クリスチャンが駆け寄り、慣れた仕草で騎上のシシルに手を伸べる。ここ数ヶ月、クリスチャンは馬鹿みたいに背が伸びた。鮮やかにシシルの身を受け、ロバから降ろすクリスチャンは、まるで騎士のようだった。
「シシル様、ようこそ」
 司祭カトリノーが戸口でシシルを迎える。クリスチャンとは逆に、カトリノーは幾分縮んだように感じられる。胡散臭いほどに整って豊かだった黒髪は、数ヶ月の間に白髪が混じり、手入れされずに乱れていた。以前はなかった無精髭に覆われた顔は、わずかな時に十は老けたように思われる。肌には艶がなくなり、皺が深まってゆくのが見て取れた。
「司祭様、ほら、俺でかくなってるだろう。それにしてもシシル、ちびっちゃいなあ。縮んだんじゃないか?」
 シシルの頭をずいぶん上からくしゃくしゃ撫ぜて、クリスチャンは快活に笑ってみせた。その笑い声に、昔と違う造り物めいたものを感じてしまい、シシルは少年の手を振り払う気分ではなくなってしまう。
「そうだね、クリスチャン。私も最近、君が大きく見えるのだよ。すまないね」
「もう謝んなよ。怒るからな」
 司祭カトリノーはずいぶん変わってしまった。昔の詐欺師めいた軽口を、ここずいぶんと聞いていない。クリスチャンもずいぶん違う。その声や仕草や表情に、昔はなかった、影のようなものを作るようになってしまった。
「司祭様は俺を助けてくれた。今シファがいないのを、司祭様のせいって言う奴なんて誰もいない」
 シシルを軽く司祭のほうへ押しやって、クリスチャンは悲しげな表情のカトリノーに背を向けた。雪を被った廃墟に向けて剣を抜き、クリスチャンは正眼に、空気の敵を斬ってみせた。
「前向きに生きるさ。俺の唯一の取り柄だかんな」
 続けて剣を横に薙ぐ。その姿勢は洗練されているとは言いがたいが、ずいぶんと打ち込みに励んだらしい。力強い斬撃だった。
「俺、そろそろ行くわ。シシルに会えたし。悪ぃな、シシル。自警団の演習があるんだ。団長の俺が、サボるわけにはいかないからな」
 大きさの合わない緩そうな革鞘に、剣を差し込む。腰に剣を下げる様は、それなりに戦士の風情になっている。自警団とは、クリスチャンが組織した子供たちの集まりだ。ポドールイを守るため、武器を持って訓練をしている。最近では年上の子供たちも、自警団に参加し始めているらしい。
「ん、行ってらっしゃい」
 それだけを言って、去ろうとするクリスチャンに、シシルはほんの小さく手を振った。振り向きもせず、クリスチャンは軽く手を上げる。
生意気な仕草が、なかなかサマになっていた。

 シシルは、廃墟の柱に腰掛けた。ロバのディアンヌを呼び寄せる。ふらふらと寄ってきてくれる、この子は何も変わらない。
「シシル様、お茶です」
 カトリノーが碗にお茶を入れて、持ってきてくれた。倒れた柱を台にして、シシルの傍らに双子のいびつな焼き物茶碗が並んでいる。お茶はお椀の底が見えるほどに薄かった。だが冷たい空気に昇る白い湯気だけで、あったかそうで、おいしそうだ。
「ありがとうございます」
 シシルは碗を取り、両手で包む。熱が、冷たい指先に移ってくる。
「禁教令が出たそうですね。あたし、知りませんでした」
 口をつけず、茶碗を覗く。わずかに香ばしい匂いが鼻につく。細かなお茶の葉が、淡く茶色がかった水面をゆらゆら漂っていた。
「ええ、私も新聞で知りました。一月ほど古いものですが。都の聖職者たちは、新教への改宗を迫られているそうです。ギィオ大司教は囚われたそうですし、アルトワ大司教様も、黒い僧衣を脱いでしまわれたそうですね」
 ギィオとアルトワ。ロアンヌの選定侯をも兼ねる、大司教たちだ。敬称の有無に、司祭の微妙な感情の差が感じられる。ギィオは聖職者でありながら、かねてから悪い噂の絶えない人だった。
「司祭様は、大丈夫なのですか?」
 カトリノーの衣は、手入れしていないようでずいぶんよれてはいたが、伝統的な真っ黒な僧衣だった。黒い僧衣は、皇帝の命のもと禁教とされた、伝統ある教皇庁派に帰依することの印である。
「取り締まりは、その地の領主の裁量でされています。ジューヌ伯爵様は、少し変ですが」
 言葉を詰まらせ、所在なげにカトリノーは茶碗に口をつけ、音を出して啜ってみせた。薄い司祭の唇の端に、お碗から一滴零したような、小さなほころびが見てとれた。
「でも良識ある方です。私を捕らえることも、若者を戦場に送ることも、ないはずです」
 徴兵の令。畑を耕すべき青年たちを、兵士として戦場に送る法だ。思うにつけ、シシルは俯き、顔を曇らせた。
「クリスチャンにも言ったことですが、恨みは何も生み出しません」
 碗を置き。カトリノーはシシルの前に回り、身を屈めた。突然、シシルの片頬を軽くつまむ。
「片っぽのほっぺをつねられたら、もう片っぽのほっぺを出しなさい、と神様も教えています」
 これほど子供っぽい言い回しではなかったはずだが、聖典にはそんな意味の言葉もあった気がする。カトリノーを安心させるため、シシルは空いた片頬を差し出した。ひどく嬉しげに、司祭はシシルの両頬をつまむ。カトリノーの手は優しく冷たく、全然痛くされなかった。

 その年の暮れ、突然都からの都の兵隊が押し入って、黒衣のカトリノーを逮捕し連れ去った。次の年には、壮年の男たちにはほぼ例外なく、徴兵に従い都へ上るよう告げられた。村を思うなら、と。彼らの文句はほとんど脅しで、すでに壊されたポドールイの村を、さらに人質にとるようなものだった。
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