ポドールイの人形師

3−5、懇請

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 傍らに頭蓋骨を鎮座させ、宙廊に繋がる階段の半ばに腰掛け、シシルは新聞を読んでいる。掘建て小屋の教会にいっぱい積んであったのを、何部か持ち出してきたのだ。もちろん本来なら司祭カトリノーにちゃんと断って借りるべきなのだが、彼は兵隊に連行されてもういない。
 いま手に取っているのは最新の刊だが、それでも日付はすでに一月近く古い物だった。新聞題は、その名も『ラ・ヴィエラ』。王室姓をそのまま冠した新聞は、徹底した皇帝擁護の記事を詰め込んである。元帥のラグナロワ将軍が北のプリィスを中心とした周辺諸国の同盟軍を破り、東の異教徒の侵攻も退けてと、獅子奮迅の戦い振りらしい。皇帝ミカエル自らも軍を率いて教皇領に侵攻し、禁教令を非難していた教皇に謝罪の言葉を言わしめたと載っている。終始勝利を称揚し皇帝の施策を礼賛する言葉で彩られていたが、政治に疎いシシルでもその記事を斜に読むのは簡単であった。先帝の代には友好的な関係にあった周辺諸国が、現在では同盟を組んでロアンヌに敵対している。シシルの父の前宰相ジネディや、叔父ラザールの活躍の元で完膚なきまでに叩き潰したはずの異教徒たちに、つけいられるほどに今の帝国は弱体化している。そして聖地を力で荒らすのは、ロアンヌに限らず、王朝を絶やす君主の常套だった。
 ポドールイの村では、シャイヨーで叛乱が起こったことがもっぱらの噂になっている。カロルががんばっているようだ。ラ・ヴィエラ紙の論調とは正反対に、村人たちは一様に王室を憎み、ラウラン家の叛乱に期待をしていた。
 もともとは穏やかな気質のポドールイの民である。しかし村を焼かれ、司祭を奪われ、男たちが連れて行かれた。怒りは当然のものであろう。

 思考を休め、シシルは新聞越しに階下を見た。赤白のとぼけた仮面を被った道化が、今日は朝から目に付くところに姿を見せている。シシルの横を通って、ナシャが階段を、足音を立てずに駆け下りた。ナシャは腕いっぱいに小さな人形たちを抱えている。ジューヌが布鞄の口を広げ、ナシャは人形たちをその中に流しこんだ。
 夜逃げの準備でもしているつもりだろうか。前日シシルはジューヌより、手紙としゃれこうべを受け取った。皇帝の署名の入った手紙には、シシルを宮廷に引き渡すようと、またその迎えを遣すと書いてある。それとジューヌの国外追放を命ずる旨が記されてあった。
 灰色のしゃれこうべは、ミカエルにではなくシシルに、と。ジューヌの言葉の意味するところはわからない。ただ寝不足になっただけだった。怖いわけではないが、やはり骸骨は不気味で、昨夜はまったく眠れなかった。離さずしゃれこうべを持ち運び、言外にジューヌに説明を求める。予想していたことであったが、朝から一貫してジューヌは見て見ぬ振りを続けていた。
 一通り荷造りを終えたらしく、人形でいっぱいに詰まった鞄をナシャに抱えさせ、ジューヌは大きく嘆息する。人形だけを持って、どうやって逃げるつもりなのだろう。シシルは多少興味を抱きながら、道化の様子を眺めている。ジューヌはもう一度大きく溜息をついて、さらにこれみよがしに咳払いをしてみせた。なんとわがままな人だろう。シシルがこうも求めているのに、何も教えてくれようとはせず、逆に話しかけろというのだろうか。
 シシルのほうが、溜息をつきたい気持ちだった。

「ジューヌさま、逃げるんですか?」
 素直に求めに応じる気にもなれない。シシルは開いた紙面を持ち上げ、頭を沈めて視界を塞ぎ、ジューヌに尋ねる。皇帝の禁教策を礼賛する記事越しに、王命ですから、と思いのほか屈託ないジューヌの声が響いてきた。
「私は母の生国のテュルクへ行きます。行ったことはありませんが、魔術の国だそうです。きっと楽しい」
 トゥルク。東方、異教徒の国だ。いつの間に、何を決めているのだろう。ジューヌの明るい声が、やるせない。
「シシル、あなたはどうしますか。あなたに見せた手紙のとおりに、宮廷へ上るのが一番幸せなはずです。あの子、ミカエルは、見かけよりも優しい子です」
 何を言っているのだろう。理解できない。紙面をめくると、皇帝をかつての歴史上の英雄と比較する社説が目に入った。一千年も昔の古典の時代、異教徒を屈服させ大陸の統一を成し遂げた古の覇王に、ミカエルの王としての資質は比肩すると書いてある。
「けれど、もしよければ。私と一緒に来てはくれませんか。追われる身の私に、シシルを幸せにできる保証は何もないけれど」
 告白にも似た、甘い言葉だ。新聞を畳む。道化の仮面が目に映る。シシルは無言で、ジューヌを見据えた。長い刹那。やがて耐え切れなくなったのか、悲しげに仮面を俯かせ、ジューヌはシシルから視線を外した。
「一緒に、来てくれませんか」
 突然叫ぶように繰り返された言葉に、シシルは少し驚いた。シシルにはなんの力もない。皇帝の元であろうと異教徒の国であろうが、思うがままにすればいい。それは容認の沈黙であったのに。
 ジューヌは答を求めてくれた。
「あたしは、逃げたくありません。もしよろしければ、一緒に戦ってはくれませんか」
 問われて、応えた。控えめな、ジューヌの口調を真似てみる。ジューヌは俯き、黙ったままだ。赤白の仮面からは、表情を透かして見ることは叶わない。
「シシルとミカエルを戦わせる」
 ナシャが、崩れた。落とされた鞄から、嫌な音が聞こえる。中の人形が壊れたのかもしれない。
「それは、私にとって悲劇です。私は逃げたい」
 困らせるのはわかっていたのだ。強いる権利もないのだ。呑み込んでおくつもりであった言葉を、促されるままに言ってしまった自分を悔いた。
 シシルは新聞を広げなおした。紙の灰色と擦れた文字列が視界に広がり、道化の姿を隠してしまう。シシルの目が届かないうちに逃げてしまえばいい。いつものように、見つからないところに消えてしまえばいいのだ。
 顔を伏せると、長い髪が落ちてきて視界を塞いでくれる。白金の簾の合間に、募兵の広告が目に付いた。君も祖国の為に戦おう! そんな文言を食い入るように見つめてやる。文字が滲んで、見え辛い。
 新聞の陰から、突然人影が現れた。紙の壁を越えて腕が伸ばされる。髪を掻き分けて、繊細な指先がシシルの視界に入ってきた。いつの間にか溢れていたシシルの涙を、優しく掬う。
「私はミカエルではなく、あなたを選んだのですから」
 まるで独り言のような小さな呟き。見上げてみると、優しく告げた声の主は、ジューヌ伯爵ではなかった。顔を見たのはずっと昔で、記憶はとても曖昧だ。だがそれでも、その正体が一目で知れる。
 異国めいた、暗い肌の色。それに不調和な、蒼の瞳。その蒼を、皆が彼の父や弟とよく似ていると言っていた。だがシシルはいつも、その評に違和感を抱いていた。その蒼はミカエルや先帝のそれよりも、ずっと明るく冷たい色のような気がするのだ。


 群青の身廊に立ち尽くし、村長ジェロム・モルロはポドールイの領主、ジューヌ伯爵と、その姫君に謁見していた。モルロは忠実な王党派であった。神を信じると同様に皇帝を崇め、皇帝や、その臣たる貴族に意見しようなどと考えたこともない。ましてや逆らうなど、想像さえもできないことだ。
 だが、隣のシャイヨーでは反乱が起こったと聞いた。貴族が先頭に立って、皇帝を相手に戦っているらしい。モルロはポドールイ村の村長である。村の皆を、助けなければならない責任があった。

  ――皇帝様は、村に火ぃつけて帰っていきました。村の若い衆はみんな、徴兵の役人が連れて行ってしまいました。司祭様も連れていかれ、お祈りさえできません。村の者はみんな、この土地や家族と離れたくないと言っとりました。戦いをするのもまっぴらだと。わしらは農民でごぜぇますから。わしらの家を焼いて、司祭様まで取り上げ、その上家族を戦場に連れて行こうとする皇帝様に、わしらはもう従えません。わしらは反抗することに決めました。この土地を守るためです。司祭様を取り戻し、家族を養うためです。村の総意でごぜぇます。ジューヌ様、どうぞわしらの先頭に立ってくだせぇ。

 呼吸も忘れ、モルロは思いの丈を披いてみせた。おそらく、ジューヌ伯爵は乗らないであろう。ジューヌは優しい領主だった。だがモルロは伯爵の中に、時に穏やかさと見間違える、空虚な淡白さをも感じていた。それでも、頼れるのは領主しかいないのだ。モルロには反抗の仕方がわからない。女、子供、老人しか残っていないポドールイの村を、どうすればよいのか見当がつかない。
「わかりました」
 返された一言に、自身で頼んでおきながら、モルロは耳を疑った。
「シャイヨーのラウラン侯爵様と合流しましょう。選定侯のドロティア様からもご助力頂けるとお返事をいただいております。北のプリィス、東のテュルクにも手紙を出しておきました。いずれも皇帝が交戦中の国です。援助を得られるかもしれません」
 モルロは驚愕して、息を詰まらせた。なんたる手際のよさ、ジューヌ伯爵はモルロに言われる以前から、反乱を計画していたのだ。魔女や異教徒にまで力を借りて、ポドールイの領主は帝国と戦うという。
「教皇猊下にもお手紙を差し上げました。あたしたちの戦いを支持してくださるって、これは聖戦です!」
 傍らの姫君が、瞳を輝かせてそう告げた。シシルの母君は、教皇庁のダルジャントー家の流れを汲んでいるのです。伯爵がそっと加えた説明に、わけもわからずモルロは目を瞠る。ダルジャントー家といえば、先代の教皇を輩出した名家だ。シシルは伯爵の隠し子という噂は、村の暗黙の事実となっている。ポドールイの領主は、なんたる間違いを犯したことか。
 呼吸がままならず、モルロはぱくぱく口で息をしている自分に気がついた。
「本当に、ジューヌ様でごぜぇますか?」
 思わずそんな言葉がついて出てしまった。ポドールイのジューヌという人形使いは、甲斐性も威厳もない、この上なく頼りない領主のはずだった。モルロの言葉に、姫君がはじけるように笑い出す。仮面の領主は、こころなしか憮然としていた。
「あたしも、偽者かもしれないと思います。でも元のジューヌ様より、ずっといいです」
 ころころ笑いながら、自分のことのように誇らしげに瞳を輝かせる姫君の言葉に、モルロはつられて頷いた。なんと心強いことだろう。
「わしに、わしにできることはごぜぇませんか?」
 選定侯が、異教徒が、教皇猊下が。辺境のポドールイ村の村長に過ぎない、自分には想像もつかないような大事が、始まろうとしている。
「村長さんにも、重大な頼み事があるのです」
 狼狽するモルロに、仮面の領主は重々しく言葉を発した。モルロは思わず、息を呑む。
「遠出になります。ロバのディアンヌを、またシシルに貸してやってください」
 呆気にとられ、一瞬モルロは言葉を失う。ジューヌの声は穏やかに笑っていた。仮面に隠れて表情の見えぬ領主の代わりに、姫君が綺麗な笑顔をモルロにくれる。
「ええ、ええ、喜んで。村の衆に姿を見せてやってくだせぇ。表でみんな、待っとります」
 人形館をジューヌが出ると、大歓声が待っていた。

 その年、アンドレ・ド・ラ・ヴィエラの名前が、秘密裏に大陸中を駆け巡った。
 ポドールイという名も知れぬロアンヌの辺境からの手紙は、帝国の正統皇位継承者の名で締められ、弟王との戦いを謳っていた。
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