ポドールイの人形師

7−12、将軍と雛鳥

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 城壁の外は、恐ろしい光景だった。たくさんの兵士たちが、潰されて死んでいた。人間がもう、人間に見えなくなっていた。しかし凄惨な情景ほどには、心は痛まなかった。あまりにたくさんあると、質を変えるのだろうか。見ていて気分が悪くなった。彼らが人間だったという事実は、精神が受け入れることを拒絶した。
 ミカエルと別れて城門の内に入ると、そこはパリスの城下街だ。ごく幼い頃に一、二度宮廷に昇ったことがあるものの、記憶は不鮮明だった。幼いアンドレ王子やミカエル王子、生前の先帝陛下にも拝謁させてもらった記憶がある。だがそれらの事実でさえ、本当に自分の記憶なのか、あるいは後になって誰かに教えてもらった伝聞なのか、区別がつかないほどに曖昧模糊としていた。そんな具合だから、馬車で寝こけて通り抜けただけの街並の情景なども知る由もない。
 シャイヨーやポドールイには『街』と言えるほどの集落はない。集落と田畑で構成される館下は、身内の住まう広い庭のような感覚だった。ラグナロワ侯爵の治めていたアルビの街を思い出す。パリスの街並みは、アルビと比べて雑然としていた。無愛想な打ちっぱなしの街並が連なっていたアルビと比べて、パリスの建物は高く聳え、あらゆる石造建築に細やかな細工が施され、石畳の通りは煉瓦一つ一つの色が異なり鮮やかだった。この街に賑やかに人が溢れていたならば、どんなにか楽しげで華やかだろうと思う。通りに住民は、誰一人出ていない。雪十字の楯を背負ったラウランの兵士たちが、整然と隊伍を組んで、シシルのために道を作ってくれた。
 黒ずんだ石造の屋根の下を飛び交う、子供の天使たちの像。建物から突き出した、こちらは真っ黒に塗りつぶされた、くちばしを持った悪魔の頭。商店の看板の下には、木板に刳り貫かれた小さな道化の影が下がっていた。人の気配を潜めた街で、街を彩るたくさんの意匠がシシルに視線を集めている。ジューヌの人形部屋を思い出した。思いがけず、ドロティアが人形屋の看板を爆破した。口元が小さく笑っている。シシルと同じことを、ドロティアも考えているのかもしれない。
 街を抜け、城へ繋がる跳ね橋を渡ろうとしたところ、騎馬に乗ったダルジャントー卿が立ち塞がった。城に踏み入ることを思い留まるよう、卿は諭した。シシルは自分の意思の断固たることを静かに伝え、ドロティアが選帝侯の名を持って卿に道を開けるように命じた。ドロティアが暴力ではなく、選帝侯の権力を振りかざすのは異例だった。魔女はロアンヌの爵位を忌避していた。
 城は開け放たれて、人気がない。不自然な様子の城内に、ラザールは危険を顧みず単身で偵察に入ったようだった。ダルジャントー卿が軍を預かり、城外に留まっている。いかにも二人の指揮官の性格を表した配置だった。

 城に入り、シシルの行動に魔女が怪訝そうな顔をしたので、シシルは言った。
「靴が、汚れてしまうから」
 アルビでもらった少し大きな革の靴を脱ぎ捨て、白い靴下も脱ぎとると、シシルは大理石の床に素足で降り立った。ぬるぬるとしている。生温かいかと思ったが、紅い水溜りはすでに床と同じ温度に冷えていた。
 葦毛の小馬には、帰っていいよ、と戻るように言葉で告げる。忠義者の小馬は、出て行こうとはしなかった。ただ血の臭いに先に進む気も起きないらしく、鼻を鳴らしてそっぽを向いて、その場を動こうとはしなかった。
 シシルの生意気な態度をたしなめるように、化けガラスが乱暴にシシルの肩に飛び乗る。ふらついてこけそうになる。爪が食い込んで痛かったが、抵抗するとさらに酷い目にあいそうなので、シシルは大人しくカラスの乗っていない側に重心を掛けて、バランスを取った。
 城の中は、城外とは様子がまるで違っていた。街には不穏な空気が立ち込めていた。いつ断ち切れるとも知れない静けさの中、姿を隠した人々も、戦いに疲れた兵士たちも、街の全てがそれに息を潜めて耐えていた。水位の低い濠を越え、王家の百合紋を抉り取られた門扉を抜ける。するとそういったギリギリに守られてきたものが、はじけ散ってしまった世界があった。
 緩慢に周囲を見回しているシシルに、業を煮やしてしまったのかもしれない。ディディエはバサバサと大きな翼でシシルの頭を叩きつつ不安定な足場を飛び立つと、一人で先に飛び去ってしまった。結局シシルは一人で、玉座の間に続くとみえる絨毯を渡ることになってしまった。ドロティアはついては来なかった。不安だったが、ディディエを追うように、シシルは振り返らずに先を進んだ。道先がわかるので、助けを借りる必要はない。
 宮殿には廊下がない。無数の部屋がそれぞれ直接に繋がっていた。あまりにも無秩序に部屋が連なり迷路のような造りだったが、とある主要な通り道には白い絨毯が敷かれていた。絨毯の両の縁に延々と縫い付けられた花の刺繍からも、白い道の行き着く先がわかる。百合の花は、皇室ヴィエラ家の紋様だった。
 しかし、世界で最も華やかで上品だったはずの宮殿は、いまや目を覆わずにはいられない、惨劇の舞台だった。真っ白な花の道先案内だったはずの渡り絨毯は染め上げられ、紅い血の道標と変わっている。宮殿の連なる室たちが、本来各々の趣向で客人をもてなしていれるはずだった。煌くシャンデリア、銀の空鎧、東洋の陶器、砂漠の国の硝子細工。だがそれらの宝物は、打ち壊され、奪い去られ、今は原形をとどめている物は残っていなかった。足元には陶器の破片が散らばっており、シシルは端によって絨毯を渡った。
 転がる死体は、城外の潰された轢死体たちより綺麗だった。皆斬られるか突かれるか、いずれにしろ刃物で原形を残したままに殺されている。傷のない部分は生者となんら変わらない。プリィスの蛮族の兵たちの死体は、感慨もなく直視できるほどに感じるものは少なかった。死体だということよりも、むしろ裸に革の鎧を着ていることや、胸元や脇の下から覗く毛深さに、生理的な嫌悪を覚えてしまう。武器を持たぬ廷臣や、あるいは若い小間使いの遺体を見ると、さすがに胸の軋みに苛まれた。目を背けるのは逃げになろうか。だが当てられて、先に進めないのでは元も子もない。気を取り直すと、シシルは努めて足元には目をくれず、絨毯の示す道の先へと視線を固めた。

 二階に登ると、不意に頭に重いものが着地した。
「ディディエ……」
 思わず漏れたシシルの声は不覚にも半泣きになっていた。全くの死角から襲われたので、驚いてしまったのだ。涙で霞んだ目をこすり、重い頭で部屋を見渡す。
 階段の手摺の突き出た小さな部屋は、他の部屋とは少し趣が違っていた。二階への入り口として、玄関のような役割の部屋らしい。三方に扉がついており、どこか落ち着かない。死体はあったが、物が少なく、お陰であまり荒らされてはいないようにみえた。手摺の脇の飾り棚には、紫の花がほとんど枯れかけで生けられていた。その向こう扉のない壁側には、来客を待たせる背凭れの長い椅子がずらっと十数脚並んでいる。階段から二番目に遠い椅子に、ラザール将軍が座っていた。よく見るとラザールの大きな体に隠れて、一番奥には小さなシファが足を垂らして座っている。
 今さら礼を尽くすような相手ではない。だがここが王宮だということを思い、シシルはスカートをつまみ、頭上のディディエを刺激しないよう慎重に浅く礼をした。年少のシシルから声を掛けては、非礼にあたるだろうか。黙って逡巡していると、ラザールが座ったままに片手を上げて、よう、と言った。声音は明るく機嫌は良さそうだった。シファは危なっかしく椅子からずり降りると、スカートを持ち、シシルに深く頭を下げた。
「ごきげんよう。かしこまらないで」
 シシルは少し笑ってシファに告げる。続いて相好を崩したラザールへと目を向ける。
「ジューヌさま。いえ、アンドレ陛下はどこですか?」
「正面の扉。そこを抜けると短い身廊が続いている。その先が王の間だ。そこで陛下は、シシルをお待ちしている」
 ラザールの機嫌の良さは、空元気のようだった。淡白すぎる。軽口を言ってシシルをからかう気配もない。この状況でラザールを滅入らせるような現実といえば、考えられる可能性は幾つもなかった。
「シシルさま。リュックさまをわたしがこ……」
 言葉を発した小さなシファをラザールが座ったままに摘み上げ、口を塞いだ。もがく幼児を膝に乗せ手を焼くラザールに、重い頭の上にも構わずシシルは今度は深く礼をした。バサバサともがくように羽ばたきながらも、ディディエは飛び立とうとはしなかった。しっかりと爪を立てて一度シシルの後頭部に回り、シシルが頭を上げると、ディディエは頭頂の元いた場所に戻って落ち着いた。
 覚悟はしていたはずだから、泣きたくなかった。顔に掛かった髪を耳に掛ける。視線を上げて、そのままラザールとシファの前を行き過ぎる。
「シシル。心を凍らすことと、心を強くすることは、同じじゃねえぞ」
 背後からの、ラザールの声。自分の心のありように気付かされた瞬間、涙が滲んだ。
 カロル。一番大好きな、心許せる、姉妹のような友達だった。堰を切ってしまったように、とめどもなく涙が溢れる。
「リュックさまの復讐をしたいなら、シシルさまはわたしを殺さなきゃいけません!」
 復讐を生きる糧にしろと。同じようにかつて、シシルはカロルを唆した。幼い声の叫びを、シシルは振り向きもせずに無視をした。涙を悟られないように、王の間への身廊に繋がる扉を抜けるまで、目を拭うのは我慢した。
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