ポドールイの人形師

7−13、壊れた人形

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 短い身廊だった。十五歩分もあるだろうか。足場もないほどに、蛮人の兵士の死体が折り重なって倒れていた。シシルはそこで、目を擦って、深呼吸をした。
 一際深い血の海を、シシルは素足で渡り切る。両開きの、豪奢な金縁の施された巨大な扉が待っていた。あるべき百合の紋章を削り落とされた金の把手に手を伸ばす。触れる寸前、扉が自然と開いた。頭の上からディディエが飛び立ち、合わせ扉の隙間からすかさず中に入ってしまった。扉が勝手に開いたことにシシルは少し驚いたが、人形館に慣れてしまったせいで不思議がるほどのこととも思えず、誘われるままに足を踏み入れる。
 王座の間は、吹き抜けの、高く広い空間だった。風すら流れるほどに広大な部屋にあって、玉座は小さく見えてしまう。部屋の中心に、玉座の箇所は少し高く段を作られていた。重々しい威厳は削がれている。だがはるかな世界のその中心に、王が在ることを実感する。
 床には、やはりたくさんの死体が転がっていた。蛮人や位階の低いロアンヌの廷臣たちの斬殺死体に混じり、乾き始めた真っ赤な海に、うつ伏せに肥満した男が倒れている。シシルの父ジネディを逐って宰相位についた、ティエリ・ド・ヴィルトールだ。玉座の傍らで、白い僧衣の聖食者が肩口から腹に掛けてまで二つに割かれ、座った姿勢のままで事切れていた。選帝侯の一人、大司教アルトワだろうか。会ったことはない。だがミカエルから話を聞いている。彼は勇者だったらしい。青ずんだ冴えない相貌は、ミカエルの語った勇者というより、噂に聞く臆病な性格と合致した。玉座の足元の、首のない金の鎧が目を引いた。鎧の手にはまだ、しっかりと長い剣が握られていた。
 ディディエは玉座の主の肩に、まるでずっとそこにいたかのように目を瞑り、落ち着き払って鎮座している。
「シシル、私は王を殺したよ」
 声の主は、膝に乗せていた人間の頭を掲げてみせた。生首のくすんだ金髪がみすぼらしく垂れている。紫色の唇がだらしなく開き、灰ずんだ白目が焦点もなくシシルを睨んでいる。金の鎧から離された、頭のようだった。
 玉座に座ったジューヌは、赤白の仮面を被って顔を隠している。黒いマントの代わりに、鮮やかな真っ赤なケープを纏っている。頭には紅玉と翡翠と紫水晶をふんだんに嵌め込んだ、色とりどりの小さな冠を被っている。くすんだ金髪を流す小さな頭を、見せびらかすように掲げてみせる。狂った道化の王がそこにいる。
「王を殺したから、私が皇帝だよ」
 飾り立てられた道化の王は、嬉しそうにそう言った。
「ジューヌさま、おめでとう」
 シシルはそう言って笑ってみせた。赤白の仮面が恥ずかしそうに少し俯く。知ったジューヌの面影が見えて、シシルは少し安心した。
「あなたは本当のジューヌさまですか?」
 シシルの問いに、皇帝になった仮面の道化は、仮面の顎に手を当てて、思案するような仕草を見せた。露わな手には、遠めにもわかる深いひび割れが走っていた。暗い色の肌に白い亀裂がよく映える。
「……もし本物がいるとしたら、それは私だと思います」
 ジューヌは歯切れ悪く言葉を紡いだ。ジューヌはもう人間ではなかったし、行動は常軌を逸していたし、格好もおかしい。それでも目の前のジューヌは間違いなく本物だった。シシルの中の、確かな感覚がそう告げる。その内からの声をシシルは確信していた。
 大理石で出来ているはずの床は、一度固まったはずの血の上に、再び温かい血が膜を張るように広がっていた。素足で生温い感覚を踏みしめていると、不意に乱暴な衝動が湧き起こった。
「ヴィルトール侯爵さまは、ジューヌさまが殺してくれたのですか?」
「いえ、私が来たときには、既にもう」
 シシルは血の海に腹から半ば沈んだヴィルトール侯爵に駆け寄り、その脇腹を蹴ってやった。肉は見た目よりも固く、仇敵を蹴り付けるのは驚くほどに痛快だった。気が済んでジューヌを見やる。赤白の仮面に穿たれた、とぼけた対の穴と目が合った。
「……驚いた」
「がっかりしました?」
 呆然とした様子のジューヌに、シシルは首を傾げて訊ねてみた。声が少し甘えているのを自覚して、顔には出さずに二重に驚く。残酷な自分、媚びた自分。そんな自分が、いたのだろうか。
「いいえ。お転婆ですね。また一つ、シシルのことが可憐に見える」
「もうそんなことを言われて、喜べるような子供じゃないです」
 制御が利かない。もう一度今度は侯爵の背中を踏みつけ、シシルは上目遣いにジューヌのことを睨んでいた。
「じゃあ、美しい。ミカエルよりも、シシルのほうが美しい」
 シシルは不満に眉根を寄せた。それはジューヌの価値観においては最高の賛辞なのであろうが、ミカエルと比べられても喜びようがないのだ。比べてもらうなら誰が良いだろう。美しい人。ナシャが美しい。だがシシルによく似たナシャの顔は、シシルよりも少し大人びて見える気がする。身長も、結局ナシャに追いつけそうな気配はない。造りが似ている分だけ劣る部分がはっきりしていて、おだてられてもとても素直に喜べそうにはない。
 侯爵の背中に一度両足で昇り、両腕を開いてバランスを取る。やがてふらつくと、前に小さく飛び降りた。赤い飛沫がドレスに跳ねる。白い裾に、血色の染みが増えてしまう。真っ赤なドレス……。
「そうだ。あたし、ドロティアさまより美人ですか?」
「もちろん。一万倍。いや、百万倍、千万倍シシルの方が美しい。あんなのと、比較することすら意味がない」
 ジューヌは間髪入れずにそう叫ぶ。シシルは吹き出した。ジューヌはただでは済まないだろう。カラスを通して、魔女はきっと全てを聞いている。ディディエは人語のわからぬただのカラスのようにじっとしたまま黙っている。その沈黙がまた怖い。
 シシルはジューヌの元まで走り寄った。玉座の前。ジューヌのすぐ前まで行くと、立ったシシルは座ったジューヌよりも視点が高い。シシルはその場で、両膝を折って座り込んだ。ねっとりとした温かさが、足指が沈むくらいの高さまで折り曲げた脛を浸す。
「シシル、髪が」
 ジューヌが悲痛な声を上げた。シシルの色素の薄い長い髪が、紅い水の上に放射状に広がっている。髪は血を吸い上げ、床についていない部分までゆっくり紅に染まっていく。
 ジューヌは額に手を当て仮面を俯け、心底肩を落としたようだった。シシルが冷ややかに見上げていると、やがてジューヌは意を決したように視線を上げた。
「司教の娘を殺してしまったことを、シシルに謝ろうと思っていた」
 司教の娘。すぐにはカロルのこととはわからなかった。カロルを、リュック司教を基準に考えたことはない。ジューヌはカロルの名前を覚えていないようだった。
「ジューヌさまが殺したわけではないと聞いています」
 シファの叫びを思い出す。復讐をするなら標的は自分だと。まさかジューヌを恨まぬよう、罪を被ったということもないだろう。復讐はシシルの義務だった。リュック司教が、リリアンが、カロルが、小さなシファまでもが繋いだ連鎖。空しいとシシルがそれを断ち切ることは、彼らの生き方そのものを否定することになるだろう。だが、ただ彼らを裏切ることを申し訳ないと思うばかりで、誰かを恨む気持ちにはなれなかった。
「彼女が死ねば、シシルが悲しむ。少し考えればそんなことわかったはずだし、そうすれば彼女が死ぬのを私は止められた。私は後悔している。救えなくてごめんなさい」
 シシルは首を横に振った。懊悩するジューヌをじっと見つめた。
「ずれてます」
「……ごめん」
 気まずそうに再度謝ったジューヌに、シシルは心の中で、いいえ、と答えた。シシルだって変わらない。カロルのために、何もできない。カロルを見殺しにした人を目の前に、憎しみも、怒りさえも起こらない。
「あたし、ジューヌさまに言わなきゃいけないことがいっぱいあったんです」
「うん、ああ」
 赤白の仮面は、口篭もって、少し呻いて、そして言葉を失った。シシルも言葉は続かなかった。いつの間にか、シシルは『正しい理想』を語る資格を失っていた。
「私は、よい皇帝にはなれないと思う。ラザール将軍の言っていた『正しい理想』よりも、国や民よりもずっと大事なものを持っている」
 シシルは黙って頷いた。ジューヌはナシャを通して、シシルと同じものを聞いていたのだ。同じ意味の言葉を、リリアンは悪意を込めて、ラザールは諭すように教えてくれた。ジューヌは、シシルのために、世界を犠牲にしてくれる。短く苦しげに、ジューヌは彼らの言葉を自ら認めた。
「でも、シシルがいれば、私は良い皇帝になれるはずです。私は、シシルの望まぬ世界を造らない」
 シシルは少し失望した。そんなものは詭弁だった。右手を床の血に浸した。まだ、ほのかに温かい。
「あたし、ポドールイに帰りたいです。あの村が大好きです」
「すぐ帰りましょう」
 ジューヌはプリィスの王の頭を放り捨て、腰を浮かしかけた。シシルは構わず言葉を紡ぐ。
「あたし、ミカエルさまとは仲直りをしました。あの人は少しあたしと似ています。不出来で罪深い人間だけど、憎めません。許してあげて下さい」
「許します。私はポドールイに行くから、パリスの宮殿をミカエルに任せましょう」
 ジューヌは立ち上がっていた。背の高い道化の王を、シシルは座ったままに見上げた。赤白の仮面に穿たれた、とぼけた対の穴が怪訝そうにシシルを見下ろす。早く行こう。そう促しているようだった。
「……馬鹿」
 じっと仮面を見上げたまま、シシルは呟いた。ジューヌは怯んだように、ほんの少し仮面を背け、視線を逸らした。肩のカラスの金の双眸が、代わりにじっとシシルの視線を射返した。
 シシルは仕方なく立ちあがる。近く、ジューヌに寄る。後退ろうとしたジューヌの、赤いケープを左手で捕まえる。仮面に手を伸ばした右手は、血に浸していたため紅く爪の中まで汚れていた。その紅く汚れた手で、シシルはゆっくりジューヌの仮面を外す。
「それは、『正しい理想』の世界じゃないです」

 壊れた陶器の顔があった。銀の髪の暗い肌の色の、少し哀しげな顔だ。明るい蒼の宝石は、左の眸だけだった。顔の右半分は、叩き割られて消えていた。ジューヌの顔の鼻から上の右半分は、白い陶器の断面が覗いている。中はただの空洞だった。
「クヴァー」
 カラスが鳴いた。鳴き声には、魔法が込められてあったのかもしれない。意味が、理解できた気がした。ジューヌはすでに死んでいる。ここにあるのは、魂だけを込めた器だ。想いだけが純化されてしまった、不完全なジューヌがいる。
 シシルは仮面を落とした。飛沫の跳ねる音がした。陶器の断面に、湧き溢れる愛しさを込めて、手を伸ばす。シシルが指でなぞった跡には、薄く血の紅が滲んだ。壊れたジューヌは逃げようとする。シシルは握る左手に力を込めて、離さなかった。
「ごめんなさい。私はまた、シシルを失望させている。愛されようなんて、恐ろしいことを望んでいるわけではありません。ただシシルが幸せな世界を、何に代えても造りたい。私が与えうる全てのものを、シシルの望む全てのものを、全て、あなたに贈りたい」
 ジューヌは弱々しく、ひびの入った左手で汚れたシシルの手を払う。すかさずその手を捕まえた。陶製の手は硬く冷たく、強く握るとひびのささくれが刺さって、痛かった。
「大丈夫です。情けないジューヌさまも、王さまのジューヌさまも、壊れた人形になったって、ジューヌさまはジューヌさまです」
「……ポドールイに帰りましょう。シシルの好きな人をみんな集めます。嫌いな人はみんな殺します。汚らわしいジュダ人や、異教徒は皆殺しです。欲しい物は全部集めます。私の人形に魂を込めれば、ラウラン侯爵も、司教の娘も、みんな生き返るはずです。いらないものは全て焼いてしまいましょう。シャイヨーの館は、元よりもずっと立派に建て直します。この汚れた城、パリスの都はもういらない。シシルのために、世界はどこまでも綺麗になります」
「やめよう、ジューヌさま」
「できる、やれるから」
「ジューヌさまの想ってくださる人は、そんな世界を望んでいるの?」
 なんと傲慢なことを口走ったのだろう。シシルは自己嫌悪に陥りながら、それでも強く、ジューヌを見据えた。ジューヌが言葉を失うのが見て取れた。シシルの視線から逃れるように視線を外す。すぐにジューヌは謝ろうとしたが、シシルはそれを遮った。
「あたしの願いは違います。あたしはジューヌさまに不幸になってほしくないと願っています」
「私の幸福は……」
「人形に封じられたジューヌさまの魂を、神様の御許に解き放ってあげるには、どうすればいいのですか?」
 表情を映し得ない壊れた顔が、絶望の色に染まった。そんな錯覚を覚えるほどに、ジューヌの纏う空気が冷たくなった。ひびの走る手を、より強く握り締める。ジューヌの片方しか残らぬ明るい蒼の単眸を、視線を外さずにじっと見つめた。

 お人形を抱き締める。
 とぼけた顔の、黒王子。真っ赤なケープに身を包み、小さな煌びやかな王冠を被る豪奢な装い。余計に滑稽に見えてしまう。顔が半分割れてしまっていて、痛々しい。どうしよう。腕のいい人形工房に持っていって、直してもらわなければいけない。
 カラスが、クヴー、と少しくぐもった声で鳴いた。
 ごめんなさい。そう聞こえたので、シシルは小さく首を振った。
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