ポドールイの人形師

2-12、雪十字の聖軍

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 喚声が鳴り響き、高貴なる雪十字の楯が乱立する。
「戦いだ、叫べ! 楯を掲げろ! 敵を殺すぞ!」
 声に乗せられて、八百もの兵が野蛮人のごとく楯を打ち鳴らし、狂ったように叫び声を上げている。
 正直今は胸の中でまだ泣きじゃっくりの止まらない、カロルのこと以外、構いたくはなかったのだが、弟の暴走は度が過ぎている。リュックは顔をしかめ、娘を優しく胸から剥がす。手持ち無沙汰なカロルの腕に、かわりに自分の黒い袖を預けてあげた。
「ラザール、何を考えているんです。すぐ止めさせなさい。隊列を直させて。早く帰りますよ」
 カロルに腕をしっかと握らせたまま、リュックはラザールの元へ行き、しがみつく娘を怯えさせないよう小声で囁く。連鎖的に盛り上がる喚き声に、小さな声はたやすくかき消されてしまう。
「あぁ? なんだ、リュック兄。聞こえないって。今から俺たちは皇帝陛下のおられる、人形館を攻めに行く。リュック兄は嬢ちゃんと義姉上連れて、早く谷に帰ってくれ」
 ふてぶてしくリュックを見下ろし、ラザールは大楯を片手で掲げながらそう言った。思えばいくら体が大きくなっても、これまでリュックは、まぬけで優しい、小犬のように自分になついてくるラザールしか見たことがない。だが血に染まる雪原で自分を見下ろすこの大男は、リュックの知らないラザールだった。
 残酷な顔をした、飢えたる戦士。そこにいる男は、リュックの見たことのない人間だ。
「ラザール様。無茶です。だって陛下を座して待つ、って父様……じゃなくて、みんなで決めたことじゃないですか」
 カロルはリュックの黒い僧衣の袖を握りしめたまま、割と大きな声でラザールに叫びかけた。だがそれすらも掻き消えそうになるほどに、兵たちの喚声はその音量を増している。
「ふむ、カロル。ようはじっとやられるのを待ってろってか。そんなこと、俺にはできねぇな。戦いは始まったんだ。今退けば、間違いなく潰される。ならこっちから、敵の本陣陥とすしかないだろう」
 そう言ってラザールは腰を曲げ、カロルの顔を覗き込んだ。腕の重みが大きくなる。ラザールの浮かべる嗜虐的な笑みに、リュックの腕にしがみつくカロルは、あからさまに怯えている。
 つい先ほどまで、泣いてしまったカロルをあやすのに手を余していたいつもの弟は、どこへ行ってしまったのだろう。とりあえず、娘に危害を加えているのは許せない。リュックは、豹変してしまった目の前のゴロツキの前髪を引っ掴み、自分の顔の前に引っ張り寄せた。
「ラザール。今、ラウランを率いているのは私です。私が、そんな馬鹿げたことを許すはずがないでしょう。すぐに止めさせなさい」
 眼前に引っ張ってきたラザールの顔には、くしゃっと笑みの表情が浮かぶ。それに伴い、頬から額へ抜けた向こう傷が大きく湾曲した。
「リュック兄は天才だ。頭だって良いし、人望も厚いし、俺の唯一取り柄のはずの剣ですら、実際のところリュック兄には勝った事はない。だからこそ俺はリュック兄を当主代理に推したんだし、もしジネディ兄が帰ってこなかったら、リュック兄に聖職なんか辞めちまって、当主を継いでもらいたいと思っている」
 リュックを賛美するラザールの表情は、いつもの大きな小犬のような愛嬌のあるものに戻っていて、リュックはどこか毒気を抜かれたような感覚に襲われる。
「では……」
「でもな」
 リュックの言いかけた言葉を遮ると、ラザールの眼光は突如鋭く光を放った。
「今はリュック兄の出番じゃない。用兵術も、戦略も、リュック兄は俺よりか修めているのかもしれない。それでも、ここは俺の舞台だ。だってリュック兄、わかってないだろう。戦場に必要なのは知恵でも勇気でもない。真っ青な、狂気だ。それどころかリュック兄は、ここが戦場だってこともわかっていないんだ」
 強引にラザールはリュックの手から頭を引き抜き、兵たちを見回す。リュックの指の間に、堅い赤毛が数本残った。
 いつの間にか狂乱は静まり、兵たちは隊列を終え、将軍の命令を待っていた。
「もう誰も、俺だってやつらを止めることはできない。見ろよ、覚悟ができたら、みんな目がぎらぎらしてるだろ。敵を殺したくてたまらないんだ」
 兵たちは落ち着きを取り戻していた。なるほど、しかしそれは、心の平穏によるものではないようだ。ラザールに言われなければ気付かなかっただろう。しかし兵たちの瞳に浮かぶ鈍い光は、確かに正気の沙汰ではない。武器を取り、ラザールの進軍の号令を待っている。彼らの目に浮かぶのは、おそらく、戦いへの狂気。神に逆らった彼らは、戦いへ駆り立てる狂気、一種の現実逃避によってその崩れそうな精神を保っているのだ。
 だがこの狂気こそ、戦争の本質かもしれない。
 心を癒す、司教の立場からすると、とても健全とはいえない。彼らの目を覚まさせ、その罪を受け入れるよう諭すのが、聖職者としての、リュックの務めのはずだ。
 しかし今、筒を放ち、戦いを前にした向かう兵士たちに。自分は何を語れるだろうか。リュックは人を殺したことがない。狂気に駆られるほどに戦ったこともない。ゆえにリュックは、彼らを止める力も、権利すらないように感じられた。
 結局リュックは、この倒錯した目をした兵士たちに、何の言葉をかけることもできなかった。

「ラザール。見事だわ! 私も賛成よ。立ち塞がる敵は、倒してしまえばいいのよ。さあみんな、筒を持つのよ!」
 テレーズが。義姉がアンドレの筒をひきずり、ラザールのもとへと寄ってくる。握手をしようと伸ばされたしなやかな腕の手首をつかみ、ラザールは彼女をリュックに投げつけた。カロルに貸していないほう、空いている左の腕でリュックはよろめきながらも、テレーズの軽い体を受け止める。
「リュック兄、ご婦人方を無事、お送りしてくださいよ」
 不敵に笑うと、リュックは踵を返して去ってゆく。
「俺はラウランの家を抜けます。もう帰ってきませんから、リュック兄は残ったみんなを、リュック兄の思うように導いてください。逃げるなり、『座して待つ』なり、もう、好きに」
 背中を向けたまま、ラザールは似合わぬ敬語で、突き放したような言葉を置いてゆく。もう戻らないと。彼なりの、別れの言葉のつもりらしい。
「ラザール、待ちなさい! 私も行くわよ!」
 抱きとめたテレーズの針のように鋭い膝が、リュックの腹に深く刺さる。
 リュックから逃れ追いすがってきたテレーズを鬱陶しげにあしらいながら、ラザールは、鳩尾に兄嫁の一撃を食らって這いつくばるリュックの方へと視線をくれた。
「リュック兄、頼むから義姉上の面倒くらいしっかり看ててくれよ」
「父様、……大丈夫?」
 ラザールの投げやりな言葉と、カロルの気遣わしげな言葉が耳に入る。
「ラ、ラザール。一つ言っておきますけどね」
 息も絶え絶えカロルに助けられて身を起こし、リュックは腹を抑えながらそう言った。
「行くのは仕方ありません。止めても無駄みたいですからね。ですが、私もついて行きますから」
 リュックの言葉に、ラザールは神妙な顔をしていた。やがてゆっくりした足取りで戻ってくる。
 怒られるだろうか、素人のくせに無責任なことを口にするなと。だが当主の代理として、兄として、八百人余の兵たちとラザールを、みすみす行かせるわけにもいかないではないか。屈みこんだままのリュックは、背の高いラザールに、高みから見下ろされる。やがてラザールは、リュックの前にしゃがみこむ。あいかわらずの厳しい視線が、リュックを捉える。リュックに目線を合わせたとたん、ラザールはそのいかつい顔を、耐えきれなくなったようにふにゃあと緩めた。
 馬鹿な弟だ。外見は大きくなったし、悪役も板についているが、その実幼い頃から何も変わっていない。結局、わがままだし、甘えん坊だ。
 一緒に来て欲しいなら、素直にそう言えば良いのに。
「ラザール、言っておきますけど、人形館まで行っても、戦うことは許しませんからね。陛下に話し合いで、わかってもらうのです」
「はいはい、リュック兄の仰せのままに。どうせ行けば、なるようにしかならないんだから」

 大切な者たちを守るため、命くらいは賭けてやろう。
 カロルとラザールに助け起こされ、テレーズの悪態を聞きながら。黒馬に跨り、雪十字の大楯を整然と並べさせ。
 リュックは一軍を率いて人形館へ上ることになったのだ。
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